カズオ・イシグロ「名翻訳家」の意外な過去。『日の名残り』に出会うまで
文学ではなく、コンピューターマニュアルを訳していた 土屋政雄氏インタビュー①
文学作品ではなく、コンピューターマニュアルを翻訳
土屋さんは、冒頭にあげたカズオ・イシグロの著作だけでなく、数々の英文学作品を手がけてきたベテランの翻訳家だ。近年でも、アーネスト・ヘミングウェイ、ヴァージニア・ウルフなど、著名作家の訳書を担当している。しかし、元々はコンピューター製品のマニュアルを日本語に訳す、“技術翻訳”がフィールド。その意外な過去とは。
「私は大学(東大文2入学ののち、クレアモント・メンズ・カレッジに学ぶ)を中退後、翻訳を専業でやるようになりました。時は東京オリンピック直後。日本も貿易立国ということで、一気に海外との交流が増えて翻訳の需要が多かったんです。とくにJETROの仕事はよくやりました。外国での市場調査のレポートが英語で返ってくるのを日本語にする。“オーストラリアでの雨傘の市場”、“ネパールの井戸掘り需要”とか、本当に色々なものをやりましたね。
他に今でも思い出す仕事が『ナショナル・エンクワイアラー』というタブロイド紙の翻訳です。ただ中身を見てみると“UFOにさらわれて異常体験をした!”とかそんな記事ばっかり(笑)。それを翻訳して戻すと、一週間後には日本の色々な雑誌記事に載っているんです。いいことをしているのか、悪いことをしているのか、良心の呵責に悩んだこともありました」
そして、土屋さんはIBM製品のマニュアル翻訳を請け負うようになり、その関係は30年も続いたという。
「そのうち翻訳会社を通じてIBMの仕事をもらうようになりました。その頃IBMはSystem/360という汎用性を備えた画期的なコンピューターを発表したんですね。それまでは科学技術用と商業計算用で別れていたコンピューターが、一般の人にも使ってもらえるようになった。つまりそれだけマニュアルも膨大になるわけで、それまで社内でやっていた翻訳を外注するようになり、私がその翻訳者第一号になりました。